昭和43年8月29日 朝の御理解
只今より、昭和43年8月29日朝の御理解を頂きます。
X 御理解第18節、この方の事を神、神と言うが、この方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃあ、生き神とは、ここに神が生まれると言うことで、この方がおかげの受け初めである。みんなもその通りにおかげを受けられるぞ。
生き神、生き神と言うが、この方ばかりではない。みんなもその通りのおかげが受けられるぞ。これはお道の信心の目当てであります。金光様の信心の目当てはどこにあるかというと、ここにある。御理解第18節ですね。ここでお互いまずなるほどをつけなければいけません。神の氏子であると言うことは奈ほど神の氏子である。ですから、私共も生き神になれるのだ。又、その生き神になることを目指すのだ。生き神とはここに神が生まれると言うことであって生き神とはここに例えば、あの人は生き神様の様な人じゃということを大変良い人と言う場合があったり、又、一つの霊能者である。霊能的な千里眼的な霊能を持った人をどこどこに生き神様が出来なさったと言うように申しますがね。人がよいとか、そういう特別な霊能的であると言ったようなことをここでは、生き神とおっしゃっているのではない。ここでおっしゃっておられるのはここに神が生まれるとこうおっしゃる。生き神とは神が生まれると書いてある。ここに神が生まれるということであってという。そこでお互い信心させて頂くようになると、信心させて頂く喜びと言うか、お教えによるところの神化というか、私の心の中に本当にどこから湧いてくるか、分からないけれども、信心頂いておるところの喜びと言うものが誰しも一応は頂けると思うのですね。例えば、言うなら、ものの一カ月も本気でお参りしよると今までかって、味わったことのない喜び、感動が湧いてくる。喜び、感動が湧いてくる。喜びが湧いてくる。その喜びの一瞬、それを生き神と言うのである。自分の心の中にそういう感動的な喜びそれも信心によって例えば、なら、なんと言うのでしょうか。オリンピックなんか、競技を見ていると日本人は日章旗なんか上がってくると国民的感動が湧いてくる。感情が湧いて来てもう胸がいっぱいになるようなことがあるですね。だから、それでも、違う。それによく似ていますけれども、信心によって生まれてくるもの。信心によって生まれてくるところの感動、喜び、その一瞬がもうすでに生き神になっている。そういうときがそれが私共はすぐそれが食われてしまうわけなんです。けれども、ですから、そういう信心から生まれてくる信心の喜びというものが、心の中に自分の心にあるというだけでまあ、自分たちは神の氏子と言うことを語らにゃあいかん。馬やら、牛やらがそういう感動がおきてくるとは思われません。神の氏子だから、それが出来る。信心の喜び、信心させて頂くと信心のその喜びと言うものが頂けるのである。ですから、その喜びを言わば、頂けるのである。ですから、その喜びをいわば、キャッチすると言うか、自分の心のーに湧いてくる。その喜びをキャッチすると言うが、自分の心に湧いてくる。その喜びをキャッチしてこの喜びがどこから生まれてくるかそしてその喜びがどこへ消えて行くのか。どこから、生まれてどこへ消えていくか。その喜びが天地に帰って行くのです。言うなら、神様に通じる、神様に交わると言うことは天地に帰ってくる。ですから、その喜びが、次の喜びを生みなして行くような働きがあるのです。こだまの様なものを大声でおらぶ、また、向こうから、ロ-ンと響いて来るような、ですから、「真にありがたしと思う心、すぐにみかげのはじめと言うようにそれが、みかげとなってかえってくる。ところが、私共はそういう喜びと言うものをやはり一応体験して感じるのです。けれども、いわゆる帰りっぱなし天地に返っていく。それを育てようという精進それをいよいよ自分のものに確固たるものにしていこうとする努力、精進と言うものがなされない。ですから、何十年、信心しておってもそういう精進しない人は、やはり、本当のおかげになってこないということです。詫びただけで済んだとは思われん。一生懸命にお願いしたからと言うて出来る事でもない。ただ、一生懸命御礼申し上げただけでもいけん。これは、お道の信心の祈りの内容と言われるのは詫び、そして願いというようにお礼とか願いとかが中心になってそれが如何に詫びて詫びて詫びぬかれたところです。おかげになるというのではない。今日言うおかげと言うのは生き神へ向かうということではない。それは詫びがかない、お礼がかない、願いがかなうから、おかげと言う形になって成就してくるのだけれども、私が今日申しますおかげと言うのは、生き神様がそれが育ちなさるというのにゃあない。自分の心の中の神はそれによって育つと言うのでもない。してみると、祈りの内容と言われる詫とか願いとかお願いと言うことだけが出来ておれば、生き神様へ向かっておるかというとしょうじゃあない。生き神様へ向かうためには生き神様へ向かうための信心が修業が必要だと言うこと。おかげは、詫が叶えば、おかげになる。お礼が届けば、おかげになる。願いが叶えば、成就する。そうでしょう。宗教は願えばいい。詫びればいい。又、お礼を申し上げれば、おけが頂ける。けれども、今日のここんところのお互いが皆神の氏子とおっしゃるようにお互いが生き神様になれるものをもっておる。その生き神とは自分の心の中に瞬間的であっても信仰的、感動的と言ったような喜びと言うものがです。もうそのまま、生き神、その喜びがどこから、生まれてくるか分からないけれども、確かに自分の心にかつて味わったことのない感動が生まれてくる。その感動が天地にかえってくる。これが、返りに返っていき神様への道をたどるのである。ですから、今日は、詫とか、礼とか、願いとかいうものの別のもの、生き神様になる稽古と言うのが本気でなされなければ、ならないということになるのです。しかも、そのけいこというのがね。それが、お道の信心の究極を目当てだと言うこと、おかげが目当てじゃあな意。おかげだけが目当てなら、本気で自分を知って詫びるがよい。本当にお礼をいわゆる神様の御恩徳と言うものをいよいよ分からしてもろうてお礼に*したが、よかろう。猛烈な御祈念でもさせて頂いてもうそれこそ神様にむしゃぶりつくようにして願いに願ってその願いが成就して行くと言うおかげを頂かれるから、願うたがよかろう。おかげを受けるということにおいては、けれども、それが信心の目当てではなくてお道の信心でいう目当てはここ御理解18節に出てくるところのみな神の氏子であると言う自覚に立ってそして信心をさせて頂いておれば、一応は誰でも受けるであろう信心の喜びというものをそれをキャッチしてそれをつかんでそれを育てて行くと言うこと。その喜びをいよいよ育てて行くと言うこと、その修業が金光神の信心の本当の目ざしであり、目的であると言うこと。そこで我が心が神に向こうていくという。その向こうていく向き方、自分の心が少しづつでも生き神様の方向へ向かって進んでいくと言うこと。その事が現に信心でありますがです。本当にそれが向かって進んで、その生き神様が成長しておいでなければ、ならん。それを楽しむ。それを喜びとしての信心、その我心が神に向こうていく信心とは、どういうことか、自分の心の生き神様が本当に生き神様たらしめるための信心と言うものは、どういう信心をさせて頂いたらよいか、この方がおかげの受け始め皆もその通りにおかげが受けられると金光大神がおかげの受け始め。だから、その通りのおかげがお互いに受けられるのである。だから、その通りの言わば、信心を出して行かねばならん。教祖様がお**になったであろうというそういう信心をお互いにたどらせて頂かねばならん。その生き神様になっていく。その度合いというものが、御神徳というのである。御神徳を頂いて自分の心が神様に向かって進んでいきよる程度、それがお徳なのである。それに対してくださっておる神様のいわば、喜びが天地に返っておる。その返っていくそれが、又返って来るのがこだまのようにかえってくるのが、神様のお喜びであり、神様のそれが御信用になっていくものである。それが、お徳になり、生き神様にむかっていきよる程度であり、又は、それをまあ図るならば、それが一つのバロメ-ターである。自分の受けていきよるお徳と言うものが自分でだんだん感じられてくる。そこでですね。皆さん、そういう例えば、今日私が申しました皆さんがお礼に徹してお詫びに徹してそして、本気での願いに徹して行くところの信心によっておかげは受けるけれども、その事によって生き神様へ向かっていくと言うことではないと言うこと。生き神様になっていく為の一つの雰囲気とかね、状態にはなれますけれども、それによって進んで行くんじゃあない。そこで、そんならば、どういうような状態が神様に向かって進んで行くか、どういうような信心かということです。結局私は素直心だと思うのですね。何事も素直心の一つにて雲の上まで昇る道あり、雲の上まで昇る道ありというのはです。いわゆる生き神様へもなって行ける道もあるのだと言うことなんだよ。そこで素直と言うことはどういうことか。あの人は、生まれつき素直だといいますね。従順な人を素直だと申します。なるほど、それも素直ですけれども、ここでいう素直とはどういうことか素直にて雲の上まで昇る道であるとおっしゃる道とはどういうことか。素直にて雲の上まで昇る道であるとおっしゃる道とはどういうことか。素直にて雲の上まで昇る道であるとおっしゃる道とはどういうことか。昨日は竹葉会でだくさん集まっていました。月々にね、最近の竹葉会は充実してきておる。始めの間は、まあ言うならば、姑と親子関係、特に若い嫁さんたちですから、家庭の中の人間関係に何時も下積みされて何時も悩み続けて世の中こげん苦しいものじゃろかというところばかりとおって来た。いうなら、集まりであるから、どうしてもそういううっぷんのはけ場でいうなら、姑との悪口の出し合いの様な会であった。会がだんだん、おかげを頂いてから、一姑、ばばさんか、悪かじゃなかった。自分が悪かじゃったということが分かってきて、いや、こどもじゃあなかった。主人じゃあなかった。自分自身が段々分かっていくと言うことが、この頃楽しみといったようなですね、内容になってきたら、だんだん増えてきた。そういう雰囲気の中に竹葉会が開かれているのです。私も四時半の御祈念が終わってから、今回参加させてもらたんです。けれども、その中でも私、お話させて頂いたことですけれども、その後に高橋さん所の家内子供つれて来ておった。もう公認で参られるのは、竹葉会の日だけぐらいのもの。ですから、まあ子供連れではあるけれども、お参りさせていただいた。丁度始まる前に一時のご祈念がはじまりますから、若先生といっしょに参加させてもろうて、ご祈念させてもろうた。そしたらね、もうそれこそありありと御心眼にね、ばく進と言う字を頂いた。ばく進とは進んで行くといことそのばく進がね、ずっと内殿の方へ向かってすすんでおるんですね。神様のお社の中へばく進と言う字が入っていってしまった、という。私はそれを聞いていて身が縮む思いがしました。なるほど、いうなら、今あんた達のお父さんが信心がいうなら、ばく進じゃろうと私は思う。まあ、それこそ一にも神様、二にも神様、三にも神様と言う生き方なんですね。忙しいとか、こげな用事があるとか、自分の都合なんか言うてはおれないと言うような最近の高橋さんの信心とおもうのですけれども、神様に向かってばく進しておる。だから、主人もばく進するなら、あんたもばく進させにゃあいけんと言うて、あんたが、合楽の方へばく進してくるわけにはいけんから、家庭でのばく進、姑親の関係もあろう。子供との関係もあろう。兄弟との関係もあろう。従業員との関係もあろう。お父さんがおらん間はやはり、主人の手代わりとしていわゆるあの大きな店を仕切っていかなければならん。なかなか、商売人の家に生まれていないから、なかなかやっぱりむずかしいことである。心が真暗になることもある。傷つけられる事もあろう。けれどもですね。やはり、神様に向かってばく進すると言う信心をね、家庭の中でさして頂くと言う事を私は具体的にいろいろ話させて頂いた。昨日は高橋さんが朝の御祈念にお参りに見えなかった。どうしたことじゃろうかと重いよったら、御理解半ばに見えられた。そしてお届けきかして頂きよったら、「先生、私今日目が覚めたら、もう5時じゃった。もうびっくりしてから、走ってきた。ところがその外車のすばらしい車が自分の車を猛スピ-ドを出してば-っと追い越した。こちらもまた負けん気でまた追い越した。そしたら、また向こうも追い越した。もうそれと競争するようにしてやって参りました。競争しながら思うた。はあ、神様は今日この車を使うてこの車を使うて、いわば、通り少ないあの朝の時間をですね。もうそれこそばく進してきたんですよね。それで丁度今日のスピードは神様の許されるスピードと思うてですね。その外車に負けんようにしてぬいたり、ぬかれたりしてから、やってこさせて頂いたら、まあだ、御理解半ばだった。してみるとですね。そうですね。やっぱり、福岡からいわば、30分間で着いてる感じですね。それはもうよっぽどの猛スピードであっただろうとこう思うのです。そういうこともばく進として昨日家内にばく進というてくださったのじゃあないかね。神様に向かうときにはかば目時代でしたか私が具合が悪いときに先生方が親先生が具合が悪いと言うことで電話をかけた秋永先生と高橋さんや皆さんがこちら合楽に向かうときもばく進であったわけですね。もうそれこそ、何もかもがむしゃらにかけってきた。今日は神様が許されるぞと走ってきた。そういう私は神様に向かって許されておるんだと、例えば、そこにはもう、交通法規と言うことなんか無視してあるのですけれどもです。神様へ向かってくる。もう何物もない、いわゆる押しに押して合楽に向かって来る。そういう心がばく進とこういう。神様に向かってばく進してくる。今日は遅かったから、あとからゆっくり参ろう。こういうところにはね、今日私がいう生き神への道は程遠いです。もうよかよか、神様が今日ゆっくり休ませてくださったと言うようなところにはね、私は生き生きした神様への道はまあだ、遠いと思わなければなりません。神様に対するところの思いが一番にかかっておる。これもやはり、昨日、竹葉会の中で発表しておられる。私は一部しか聞いていませんけれども、久留米の佐田さんがお話しておられる丁度20日の日にあちらの宅祭りが盛大ともう本当にスムーズの中だけではなくおかげの中にできたんです。ところが21日から、2番目の娘さんが耳が痛いと言って泣き出した。もう一晩中耳がうずいて休ませなかった。神様にお願いしてというて御神酒を頂いたり、御神米を頂いたりした。ところが2日たっても3日たってももうとにかく晩はそのために眠れない。そこでそのみんなが特に信心のないおじいさんなんかはブツブツいいよんなさる。もう金光様、金光様と言うてから、ちょっと医者につれていきゃあよかところにと言うわけなんです。初めの間はそうでもなかったが、いうなら、周囲のものがじつなくなってくる。ところが、何日目かぐらいしてから、今度は一番下の恵介君がまた耳が遺体と言い出した。二人の者がもうとにかく交代のように晩休ませない。けれども、佐田達がそこに感じられたものはね、おお祭りまではあのようにスムーズにおかげ頂いてあれも済み、これもおかげを頂いてそしてその翌日からこの修業が始まる。こりゃあ、只事ではない、と思うた。これは只事じゃあないとまあおかあさんと恵美子さんと言わば、話し合い、励ましあってですね。こりゃあ、神様、お母さんことご都合じゃあないですよ。子供たちまでも、私たちが今佐田家まで、こういう修業をさせて頂いておるときであるから、子供たちまでこうして修業をさせて頂いておるということ、そこでだんだん日にちがたっていくけれども、ますます痛むばか。。そこでです。まあ、奥さんが感じられた。思われた。どうぞ。楽にしてください、というてお願いしよる。いろいろな人の話が入ってくるわけですよ。早ようしなさいね。中耳炎になりますよ。中耳炎だけならいいけれど、脳膜炎になりますよ。どこどこの人はほったらかしておって脳膜炎になりよったですよ、というような、いうなら、こちらが迷わなければ、おられないようなニュースが入ってくる。それでもそこをやはり毅然としておかげを頂き抜いていこう。そのことによって、もし、耳が遠くなるなら、耳が遠くなれ。中耳炎になるなら、中耳炎になれ。馬鹿になるなら、馬鹿になれという腹ができてきた。おかげで一週間さしもの毎晩休まれなかったのが、昨日からおかげを頂いた。昨日は一番下の恵介君がいっしょに参って来ておりましたが、まだ痛みよるけれども、泣きながら、僕も朝参りするというてから、お参りする。自動車の中から「おかあちゃん、もう耳が痛とうならなくなったよ。」というようなおかげを頂いたという。おかげで昨日は機嫌よう子供たちが*ぶおかげを頂いたと言うてそういうお話をなさっておられます。それはそういう一つのおかげ話とか、いうものじゃあないわけです。これが生き神になるのです。今日、私がいう生き神への道とか生き神へなる稽古と言うのはそれなんです。これもやはり、高橋さんがおとといお届けがありました。あちらの二人の娘さん達が一年生と五つになります。目が悪い。それで病院につれて言ったところがおねいちゃんのは一時ばかり養生しときゃあ、よかろうということだった。ところが、二番目のふみさんの目はこりゃあ、とても一時、二時しても良くなる目じゃあなか。だから、眼鏡をかけなさい。養生しながら眼鏡をかけなさい。まあだ、四つか、五つの娘が眼鏡をかけた。こげな滑稽なことはあるもんか。それはいかんばいと私は申しました。それは、ばってんどっちかと言うと、ひどか方がそれだから、私が軽か方は、医者に任せなさいと頂いた。けれども、五つの方の医者がこれはもういかん。眼鏡をかけなさいと言う方々には、眼鏡はかけなさんな。神様一心におすがりなさいと私が申しました。そして高橋さん、どうぞ目がようなりますようにとお願いしなさんな。盲になたっちゃかまわん、という気持ちになんなさいと申しました。それでも先生、道を歩きよって自動車が通うてん分からない。あのように**ゆくてしてめんたまも悪くみえませんけれどそげんなんです。だから、例えば、道を歩きよって、たとえ自動車に衝突したってかまわん。気になりなさい。目がねかようることさせなさな。姉の方のかるうしてような方医者にかけなさい。けれども、神様の本当は眼をかけさせなさんな。神様一心におすがりしなさいと私は申します。私はね、そこに生き神への道があると思うからなんです。そこに私は今日言う素直さ、信心でいう素直さ、神様になって雲の上まで上る道があると言う素直さはそういう素直さなんです。自分の都合のよかときだけだったら、誰だって神様の言うことを聞きますよ。そうでしょう。自分が右か左か迷おうとるときには右にと言ったら、「はい」というのは当たり前でしょう。けれども、これを素直に聞かねばならんと言うことは大変な難しい事だと言う中にあっても神様にまかせる。それによって例えば、よくなるというのじゃあない。つんぼになるかもしれん。一つ間違えば馬鹿になって脳膜炎になるかもしれん。それでもよかと言う気になったというのである。高橋さんにもそれを言う4つ5つの小さいのが眼がねかけてこげんなおかしいことはなか、そんなことやめなさい。そして、道を歩きよって車と衝突してもよかという気になりなさい。よし、それによってようならしてくださいと願いどんしなさんな。もう例えば、いうなら、いよいよ眼が身えんごとなってもかまわんと言う腹で神様へすがなさい。普通でならば、任せられないところが素直さが神へ向かうところの道なんですよ。ですから、ここは、もう本当に信心を頂きにも頂き、いうなら、ある意味合いにおいては、間違いのない神様であることがわからして頂いた。日々一生懸命の信心、修業がでけて、日々お教えを頂くことのありがたさがわからして頂くような人でなからなければ、生き神への道は教えられないと言うことです。私はこれは佐田さんだから、高橋さんだから、それを私は教えられるんです。金光様の信心は誰でも生き神様になれる道じゃけんと言うて誰でもこういうことをいいよったら、とても合楽の先生はどげんことでいいよなさると言うていっぺんに参って今後となるかもしれん。そして信心ちゃあ難しい無理だと言う人があるかもしれん。けれども、この人たちの場合はもう、無理とはおもわん。それと本気でそれに取り組むことをです。私は知っておるから、私がそういうふうにいうのです。どうぞ、みなさん生き神への道というのは、ここんところの試練というか、ここんところをです。通り抜かせた人たちばっかりなんです。お徳を受けると言うのは、ただ何十年参りよるから、お徳を受けると言うこっじゃない。いうならば、普通では、任せられないところを身も心も神様にお任せするという事がお道での言うところの素直さなんです。そういう素直さを以て雲の上までも上る道ありと言うことになってくるのでございます。そこで皆さん今日の御理解18節の真意というか、これは金光様の御信心のお互い信心さして頂いておる者の本当の目当てなんです。その目当てをです。もう例えば、皆さんの場合、本当のところへ持って行かなければいけないと思うのです。そしてまさかの時どんな場合であっても任せられるおかげになったっちゃあかまわん。馬鹿になったっていい。そういうままよという。腹を決めさせて頂くところにままよとは死んでもままよとの事ぞとおっしゃる。十二分の徳を受けようと思えばままよと言う心になれよと言う。ままよとは死んでもままよとおっしゃるようなお教えがここにはっきり自分のものになってくるわけなんです。そして本当の究極のお道の信心の目当てというのは、お互いが生き神様を目指して生き神様になることの楽しみ、喜びを以てです。信心をいよいよ進めていくことだと言うふうに思うのでございます。どうぞ。